2011年6月26日 早稲田大学の「太陽の船」調査

2011年6月23日(木)、早稲田大学がエジプト文化財省と共同で進める「太陽の船」調査が、蓋石の取り外しという重要なステップを踏んで発掘が始まることになった。エジプトでは、2011年1~2月に起こった政治改革(「革命」)に際して、特に考古学分野においては、エジプト博物館における遺物盗難や各地の遺跡が荒らされた混乱が報じられた。また治安の不安定さを受けて観光客も激減し、海外からやってくる研究機関の発掘調査団の仕事も中断している現状の中で(保存修復および遺物整理は継続)、今回の早稲田隊の「太陽の船」調査の発進は、日本の学術分野の調査研究を大いに元気づけることになるだろう。

ギザのクフ王のピラミッドの南側で、大型の木造船「太陽の船」がみつかったのは、1954年のことであった。古代エジプト王は、死後に太陽神となり天空を移動するために船を使用したために、埋葬に木造船が副葬されたと推測されている。この「太陽の船」の発見は、エジプトが共和国を樹立した翌年のできごとであり、在地のエジプト人考古学者によって発見されたことと、さらに、600以上のパーツをエジプトの保存科学チームが30年近くの歳月を経て組み立て(主要な材質は杉材、復元された全長約 42m、全幅約 6m、発見したその場に博物館を建てて展示したもので、エジプトの考古学史を代表する発見として知られる。

この「太陽の船」が発見された折に、堅坑の西側にもう一つ同じような遺構の存在が確認されてはいたのであるが、調査されることはなく、その後 30年あまり放置されていた。ところが987年に、エジプト考古庁の要請により早稲田大学エジプト調査隊が電磁波地中レーダーを用いて行った調査で、当該のポイントにおいて、深さ3m前後の空間がみつかり、「太陽の船」(第2の船)の存在が確認された。しかしその後、1992年に技術委員会が発足したものの、資金不足等もあって暫くは休止のやむなきに至っていたが、2008年には発掘・復原プロジェクトが再開され、それがこのたびの発掘調査の発進につながった。

発掘作業は、通常の土や砂を除去して掘り進めるプロセスとは異なる大きな壁がたちはだかる。それは、第2の船が第1の船と同様に、40枚の蓋石(1枚の重量は平均約17トン)によって覆われているために、大掛かりな重機を用いざるを得ない事態から生じる。蓋石は往時の石工の施工技術を明らかにする建築資料であるばかりではなく、蓋石の表面には石工が記した墨書きのメモを残す貴重な考古学資料でもある。そこで蓋石を慎重に取り外していくために、石灰岩材質にふさわしい帯状の吊具を選定して、蓋石の重量・重心を勘案して吊具の掛ける位置を決める日本式の「玉がけ」技術が用いられることとなった。

もうひとつの困難は、木材船が地中の竪坑に埋納されていることから生じる保存学上の問題への対応である。発掘現場は、夏場には炎天下になり、冬場には雨が降ることがあり、春には強風が吹く。その一方で、木材は湿度環境の変化にたいへん弱い材質である。そこでこうした不安定な気象環境の中でも安定的に作業ができるように、発掘現場では、酸化チタン光触媒膜材が熱の反射効率を高めて室内の温度上昇を緩和する屋根と、ポリエチレンフィルムを使用した内膜の断熱膜材が室内の空調設備への負荷を低減して、空調設備が無い状態でも外気温より4~5℃低い室内環境を有する特殊な幕屋で覆われることとなった。発掘作業によって取り上げられたパーツをいかに破損させることなく組み上げていくかは、それこそ日本の保存科学技術が脚光を浴びる場となる。

発掘隊長の吉村作治早稲田大学名誉教授は、日本学術振興会から文化財科学の領域で採択されている大型の研究費(基盤研究)で進める調査研究の代表者でもあり、人文系の研究者と最先端の保存科学研究者が融合した学際的研究の大いになる蓄積を誇る。ザヒ・ハワス文化財担当国務相が会見で述べたように、復元船は現在ギザ北方に建設されている大博物館に隣接される新博物館に展示されることによって、大博物館ともども、日本・エジプト友好の象徴になるであろう。(センター長記)

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